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西新宿 彩旬亭

2018.07.01ブログ

安泉寺の歩み

安泉寺は、正確な創建年代は不詳ですが、古くより猪飼野(猪飼津)村(現、大阪市生野区桃谷三丁目)の念仏道場であったものが、徳川時代初期の寛文7年(1667年)に、正式に真宗大谷派末寺となった寺院です。村の中央部、史跡「鶴の橋」60m北東にあります。
猪飼野は、上町大地東側斜面にあり、現在の大池橋あたりから曲がりくねって流れていた平野川(旧、百済川、宝永3年に徳川幕府が八尾から浅香山を掘削、堺へ流路変更した大和川の分流)が疎開道路に変針したあたりが猪飼野で、まさにそこに16代の仁徳天皇が「十四年冬十一月猪甘津に橋をつくる」(日本書紀)と、文献に残る日本最古の木造橋「鶴の橋」を架けられました。
その頃は大阪湾の海水が、生駒山西麓まで入り込んでいて、河内平野に広大な湿地があったようです。それで猪飼津は、玉津(玉造江)、猪飼津、桑津と続く港でもあって、百済、高麗、新羅や隋・唐とも交流の玄関口であったそうです。
古事記に、鷹甘(タカカイ)、鳥甘(トリカイ)、馬甘(甘は養または飼)や猪甘(イカイ)という言葉がよく見られます。猪飼野には古代、朝廷大膳職をつとめる、猪(豚と同意)を牧畜する技能部族が住んでいたと考えらます。和泉山脈から狭山・住吉・天王寺・生玉・高津から天満まで続く上町大地には、応神・仁徳・孝徳の諸帝が皇居を造営されていました。
室町末期に、本願寺蓮如上人が、叡山衆徒によって焼かれた本願寺を、山科から大阪に移されました。
上人は当時「小坂」とも呼ばれていた大阪の地を「大坂」と改名し、そこに坊舍を建立されましたが、その際、注文したように土中から、おびただし石材が掘り出されました。まさに皇居の遺跡であった証拠と考えられますが、そこ建立されたものが「石山本願寺」です。それが後、信長との10年間にわたる攻防戦の後、秀吉によって大阪城となりました。
徳川時代になって猪飼野村は、幕府代官直轄地となりました。これはこの村が平野街道、桑津街道、俊徳街道、桃谷街道の交わる交通の要衝であったことが、その理由と考えられます。
明治元年官地となり、明治4年廃藩置県後、大阪府の管轄となり、同22年岡村・木野村・東小橋村・小橋村と共に鶴橋村となり大阪市に編入されました。
昭和18年4月近鉄の線路を境として、東成区から生野区になりました。「鶴の橋」も新平野川開削にともない、昭和15年廃橋となりました。
明治維新以来、明治18年の枚方淀川決壊の大洪水、日清戦争、日露戦争、米騒動、室戸台風、満州事変以来、太平洋戦争までの激動の時代を経て、昭和48年には歴史有る「猪飼野」という名称も、桃谷に統一表示変更され無くなりました。
安泉寺は、徳川時代、村内の戸籍を預かり、寺子屋を開設していました。明治5年に猪飼野小学校となり、明治20年に平野川対岸の木野村小学校(宗玄寺も開設)と合併して、鶴橋尋常小学校が建設されるまで村内の子供たちの教育の任にあたって来ました。
小学校が創設されてからも、13世住職 猪甘教導、14世住職 猪甘俊譲は、寺務のかたわら、村内の児童の教育に情熱を注いでおりました。
現在の本堂は庫裡と併せて、大正14年春、住職檀信徒協力して全面的に改築したもので、南面を西面本瓦葺に変え、太鼓桜を廃し、鐘桜門とし、井戸屋型手洗所を附属しました。鐘桜門は木村権右衛門氏の寄贈によるものです。
平成6年に至って、境内南西隅にあった猪飼野若中会館(旧鶴橋青年団猪飼野分団会館)を、寺の南50mの場所に移築し、老朽化した庫裡を廃し、両跡地に安泉寺門戸会館と庫裡を新築し、本堂の全面補修を実施しました。
今日に至るまで、安泉寺歴代住職は、多数のご門徒の皆様と共に、この地域と社会にお念仏のみ教えをお伝えするべく、日々精進を重ねております。
境内214坪、寺宝に伝 親鸞聖人直筆 六字名号(如信上人に贈られた六角堂夢告賛有り)の掛け軸があります。
真宗大谷派 鶴栖山 安泉寺

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