2019.03.02ブログ
法悦 2月
法悦 二月
法悦 二月 821号
慶(よろこ)ばしいかな
心(しん)を弘誓(ぐぜい)の
仏地(ぶつじ)に樹(た)て、
念(ねん)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す。
深く如来の矜哀(こうあい)を知りて、
良(まこと)に師教(しきょう)の恩厚(おんこう)を仰(あお)ぐ。
慶喜(きょうき)いよいよ至(いた)り、
至孝(しこう)いよいよ重(おも)し。
まことによろこばしいことである。
心を本願の大地にうちたて、
思いを如来不可思議の大海に流す。
深く如来の慈悲のお心を知り、
師のご恩のまことに厚きを仰ぐ。
身に余るほどの喜びはいよいよ増し
敬いの思いはますます深まっていく。
教行信証 化身土 末巻
如来は我れなり。されど我れは如来にあらず。
如来、我れとなりて、我れを救いたもう。
曽我量深
青色青光 課題と問題
私たちは誰もが切実に自身の居場所を求めています。
居場所と言いましても、単なる場所のことだけではありません。時にそれは自分の地位や立ち位置、もっと言えば、自身の存在の根拠、生きる場とも言い換えることができるかと思います。
それ故、どこにも自分の居場所がないということほど悲しく、つらいことはありません。
心を弘誓の仏地に樹てるとは、私の計らいという、偏狭な自我関心を立場とするのではなく、選ばず嫌わず見捨てないという如来の誓いのまことを、自身の依るべき所と頂くことです。
そして、念を難思の法海に流すとは、私の自我関心の思い(念)を、海のように広やかで差別なき如来の願心に帰入することで、みほとけのお心と一味になるということです。
身近なことで言えば「老い」の現実に直面した時、それを問題とするのか、それとも与えられた課題とするのかで大きく異なってきます。
「老いは問題ではない。課題である。」 とは、哲学者、鷲田清一さんのお言葉ですが、老いを問題と捉えればアンチエイジングに躍起になるなど、問題解決が第一になって、老い病み死すべき身であるという事実から目を背けることになり、ついには我が身の居場所さえ、失う事になってしまいます。
しかし老いを課題と捉えれば、それはむしろ、あらがうべきものでなく、伴いながら生きるもの、という立場が、自ずと得られるのです。
私の身にまでいたりとどいた如来のまことが、私の依って立つべき場となって、ありのままの我が身を、そのまま引き受けるまことの居場所が、自然に与えられるのです。
住職日々随想
世にくせごと(道理に合わないこと)のおこりそうらいしかば、それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのり(わが身の安穏を祈るという狭いものではなく、世の中安穏なれ、仏法広まれと、いう深い願い、志願)にこころをいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう
親鸞聖人 ご消息(広本)
一体なぜこんなことになってしまったのでしょうか?
名だたる企業がデータの改ざんや隠蔽など、存立そのものをも危うくするような不正に手を染め、加えて、それを監視すべき行政官庁も、決済文書の書き換えや、基幹統計の捏造などなど、今や官民挙げて、至るところで不正がまかり通っています。
さらに政府は政府で、「沖縄県民に寄り添います」などと言いながら、これ以上の米軍基地は要らないという県民の意思を無視して、自然豊かな辺野古の海を破壊し、土砂を投入し続けています。
そういった有り様を日々見せつけられるにつけ、なにかもうモラルの底が抜けてしまったかのようで、今まで私たちが大切に受け継ぎ、誇りとしてきたはずの、正直さや公正さといった徳性が、目の前の利害損得に、いともたやすく踏みにじられ、葬り去られようとしています。
まるで羞恥し慚愧する心まで失ってしまったかのようで、いきどおりを通り越して、虚しさすら覚えるほどです。
しかしこれはよくよく考えてみますと、今の時代に急に始まったことなどではなく、人類の歴史とともにあった深い闇、と言えるかと思います。
そんな世をいたむ心が志願となって、真実のみ教えを求め続けてきたのです。
聖徳太子はこの国を治める根本の理念として、仏教を据えられ、権力を行使する者の守るべき規範として十七条の憲法を制定されました。その第二に「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。ひと尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。」と、真実のみ教えたる仏教に依ってのみしか、誤り多き凡夫を正しい道に歩ましめる事は出来ないと説いておられます。
そしてそれは我執を離れがたい自力の心に依ってではなく、如来のまことを頂く他力の念仏に
依る他ない事を、親鸞聖人は明らかに
されました。
二月の行事
5 日(火)午後1時半~ 囲碁教室
7 日(木)午前10時半~ ピラティス
9 日(土)午後6時~ 地域講話・懇談会
ロンドンパラリンピック セイリング日本代表
西山 克哉さん
16日(土)午後4時~ 祥月講同朋の会聞法会
法話 住 職
21日(木)午前10時半~ ピラティス
24日(日)午後1時~ 生野区仏教会70周年記念講演と映画のつどい
於、生野区民センター
28日(木)午後2時~ 仏教民謡踊りの会
*二月の門徒女性聞法のつどいは、祥月講同朋の会聞法会に代えさせて頂きます。
三月の行事
5 日(火)午後1時半~ 囲碁教室
7 日(木)午前10時半~ ピラティス
8 日(金)午後2時~ 仏教コーラスの会
14日(木)午後2時~ 仏教民謡踊りの会
16日(土)午後2時・6時 春季彼岸永代経法要
ご法話 伊勢道淨寺 酒井正夫師
28日(木)~29日(金)
中部ブロック門徒聞法のつどい一泊研修会
福井・松任方面
*本堂内全てイス席、床暖房完備、どなた様もお気軽に
慶(よろこ)ばしいかな
心(しん)を弘誓(ぐぜい)の
仏地(ぶつじ)に樹(た)て、
念(ねん)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す。
深く如来の矜哀(こうあい)を知りて、
良(まこと)に師教(しきょう)の恩厚(おんこう)を仰(あお)ぐ。
慶喜(きょうき)いよいよ至(いた)り、
至孝(しこう)いよいよ重(おも)し。
まことによろこばしいことである。
心を本願の大地にうちたて、
思いを如来不可思議の大海に流す。
深く如来の慈悲のお心を知り、
師のご恩のまことに厚きを仰ぐ。
身に余るほどの喜びはいよいよ増し
敬いの思いはますます深まっていく。
教行信証 化身土 末巻
如来は我れなり。されど我れは如来にあらず。
如来、我れとなりて、我れを救いたもう。
曽我量深
青色青光 課題と問題
私たちは誰もが切実に自身の居場所を求めています。
居場所と言いましても、単なる場所のことだけではありません。時にそれは自分の地位や立ち位置、もっと言えば、自身の存在の根拠、生きる場とも言い換えることができるかと思います。
それ故、どこにも自分の居場所がないということほど悲しく、つらいことはありません。
心を弘誓の仏地に樹てるとは、私の計らいという、偏狭な自我関心を立場とするのではなく、選ばず嫌わず見捨てないという如来の誓いのまことを、自身の依るべき所と頂くことです。
そして、念を難思の法海に流すとは、私の自我関心の思い(念)を、海のように広やかで差別なき如来の願心に帰入することで、みほとけのお心と一味になるということです。
身近なことで言えば「老い」の現実に直面した時、それを問題とするのか、それとも与えられた課題とするのかで大きく異なってきます。
「老いは問題ではない。課題である。」 とは、哲学者、鷲田清一さんのお言葉ですが、老いを問題と捉えればアンチエイジングに躍起になるなど、問題解決が第一になって、老い病み死すべき身であるという事実から目を背けることになり、ついには我が身の居場所さえ、失う事になってしまいます。
しかし老いを課題と捉えれば、それはむしろ、あらがうべきものでなく、伴いながら生きるもの、という立場が、自ずと得られるのです。
私の身にまでいたりとどいた如来のまことが、私の依って立つべき場となって、ありのままの我が身を、そのまま引き受けるまことの居場所が、自然に与えられるのです。
住職日々随想
世にくせごと(道理に合わないこと)のおこりそうらいしかば、それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのり(わが身の安穏を祈るという狭いものではなく、世の中安穏なれ、仏法広まれと、いう深い願い、志願)にこころをいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう
親鸞聖人 ご消息(広本)
一体なぜこんなことになってしまったのでしょうか?
名だたる企業がデータの改ざんや隠蔽など、存立そのものをも危うくするような不正に手を染め、加えて、それを監視すべき行政官庁も、決済文書の書き換えや、基幹統計の捏造などなど、今や官民挙げて、至るところで不正がまかり通っています。
さらに政府は政府で、「沖縄県民に寄り添います」などと言いながら、これ以上の米軍基地は要らないという県民の意思を無視して、自然豊かな辺野古の海を破壊し、土砂を投入し続けています。
そういった有り様を日々見せつけられるにつけ、なにかもうモラルの底が抜けてしまったかのようで、今まで私たちが大切に受け継ぎ、誇りとしてきたはずの、正直さや公正さといった徳性が、目の前の利害損得に、いともたやすく踏みにじられ、葬り去られようとしています。
まるで羞恥し慚愧する心まで失ってしまったかのようで、いきどおりを通り越して、虚しさすら覚えるほどです。
しかしこれはよくよく考えてみますと、今の時代に急に始まったことなどではなく、人類の歴史とともにあった深い闇、と言えるかと思います。
そんな世をいたむ心が志願となって、真実のみ教えを求め続けてきたのです。
聖徳太子はこの国を治める根本の理念として、仏教を据えられ、権力を行使する者の守るべき規範として十七条の憲法を制定されました。その第二に「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。ひと尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。」と、真実のみ教えたる仏教に依ってのみしか、誤り多き凡夫を正しい道に歩ましめる事は出来ないと説いておられます。
そしてそれは我執を離れがたい自力の心に依ってではなく、如来のまことを頂く他力の念仏に
依る他ない事を、親鸞聖人は明らかに
されました。
二月の行事
5 日(火)午後1時半~ 囲碁教室
7 日(木)午前10時半~ ピラティス
9 日(土)午後6時~ 地域講話・懇談会
ロンドンパラリンピック セイリング日本代表
西山 克哉さん
16日(土)午後4時~ 祥月講同朋の会聞法会
法話 住 職
21日(木)午前10時半~ ピラティス
24日(日)午後1時~ 生野区仏教会70周年記念講演と映画のつどい
於、生野区民センター
28日(木)午後2時~ 仏教民謡踊りの会
*二月の門徒女性聞法のつどいは、祥月講同朋の会聞法会に代えさせて頂きます。
三月の行事
5 日(火)午後1時半~ 囲碁教室
7 日(木)午前10時半~ ピラティス
8 日(金)午後2時~ 仏教コーラスの会
14日(木)午後2時~ 仏教民謡踊りの会
16日(土)午後2時・6時 春季彼岸永代経法要
ご法話 伊勢道淨寺 酒井正夫師
28日(木)~29日(金)
中部ブロック門徒聞法のつどい一泊研修会
福井・松任方面
*本堂内全てイス席、床暖房完備、どなた様もお気軽に
New Article
Archive
- 2024年11月
- 2024年9月
- 2024年7月
- 2024年6月
- 2024年5月
- 2024年4月
- 2024年3月
- 2024年2月
- 2024年1月
- 2023年11月
- 2023年10月
- 2023年8月
- 2023年7月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年4月
- 2023年3月
- 2023年2月
- 2023年1月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年8月
- 2022年7月
- 2022年5月
- 2022年4月
- 2022年2月
- 2022年1月
- 2021年12月
- 2021年11月
- 2021年10月
- 2021年8月
- 2021年6月
- 2021年4月
- 2021年3月
- 2021年2月
- 2020年12月
- 2020年10月
- 2020年9月
- 2020年8月
- 2020年7月
- 2020年4月
- 2020年3月
- 2020年2月
- 2019年12月
- 2019年11月
- 2019年10月
- 2019年9月
- 2019年8月
- 2019年7月
- 2019年6月
- 2019年5月
- 2019年3月
- 2019年1月
- 2018年12月
- 2018年11月
- 2018年10月
- 2018年9月
- 2018年8月
- 2018年7月
- 2018年6月
- 2018年5月