2020.12.05ブログ
法悦 2020年12月
法 悦 12月号 843号
蓮(はす)と鶏(にわとり)
金子みすゞ
泥のなかから
蓮が咲く。
それをするのは
蓮じゃない。
卵のなかから
鶏(とり)がでる。
それをするのは
鶏じゃない。
それに私は
気がついた。
それも私の
せいじゃない。
青色青光
親鸞聖人の晩年のお手紙をまとめられた「末燈鈔」に
「自然法爾釈(じねんほうにしゃく)」と言われる一文があります。
「自然(じねん)というは、もとよりしからしむるということばなり。
弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、
むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもわぬを、
自然とはもうすぞとききて候。誓いのようは無上仏にならしめんと誓いたまえるなり…」と、
阿弥陀様はそのままなりの貴方を救うと誓っておられる、ただ我ら凡夫は、この絶対他力のお働きに、
仏恩報謝の念仏を申してお応えするだけで良い、と了解はするのですが…
私たちは誰もみな、自身の存在がより確かなものとなるようにと、その意味を求めずにはおられません。
しかし自身の存在そのものに、意味などというものはそもそもない、そういう、自力我執のこころが求め、
自力我執のこころが納得するような意味などは、元より有りはしない、と明らかに知らされるのです。
そして、そう知らされたところこそが、我が身の落居すべきところ、私の生ききることのできる場と、
深くうなずかれるのです。
住職日々随想
作家の桐野夏生氏が「今の世の中、真剣に怒っている人と、ニヤニヤ
している人に分けられる。」と世相を分析しておられます。
実際、自国第一主義を公然と標榜する各国の指導者たちのもと、世界中に圧倒的な経済格差が生じ、
至るところで差別分断が進んでいます。そのような二極化する社会の中、怒りをもって抗議の声を上げておられる方々と、
それを冷笑する人々とに、明確に分かれてしまっているのが、まさに現実ではないでしょうか?
ずいぶん以前、中学生の社会科の授業の時、「名誉白人」と言う、不思議な言葉を教わったことがありました。
少し説明をさせていただきますと、オーストラリアに於いては、白人至上主義に基ずく差別政策が、
建国以来ずっと取り続けられていましたが、1970年代頃から、日本が国力を充実させていくなか、
日本人だけは有色人種の中でも、差別する対象から除外すべしと「名誉白人」と言う呼称が与えられました。
そのように特別視されることを喜ぶ人もいたようですが、中学生の私は、強烈な違和感を感じさせられた事を
未だに記憶しています。
なぜこんなことを思い出したかと申しますと、衆議院議員の杉田水脈氏が、「女性はいくらでも嘘がつける」と、
性暴力について学ぶ自由民主党内の学修会に於いて、そのように発言した、との報道を知ったからです。
そういう発言に対し、少なからぬ議員の方々から、冷笑的に喝采を送るような反応が見られた、
ということも情けないことです。
また、本来女性の人権を守り、差別に対して物申していくべき立場にある女性議員でありながら、
生産性の有無で人間を差別したり、今回のように、男性優位社会におもねって、自ら貶めるような発言を繰り返す、
そんな彼女をして、「名誉男性」と持ち上げ「擁護?」する向きもある事に、思わず絶句してしまいます。
男性優位社会の無言の圧力から、女性蔑視を自ら内在化してしまい、「名誉男性」とされる彼女のような振る舞いは、
かえって痛々しく感じられます。
お釈迦様は2500年前の昔から、「人は生まれ育ちによって卑しい尊いが決まるのではない。
人はその行いによって卑しい尊いが決まるのだ」と、人間の中に本質的に抜き難く存在する、差別する心にしっかり眼を開き、
自ら問い続けることを教えられました。
そのような、まさに愚かにして拙い凡夫である我々は、又、如来によって悲しまれている存在に他なりません。
いつの時代にあっても、仏法に我が身を聞いていくことが、いかに大切なことであるか、改めて深く思わされることです。
坊守便り
ーコロナ禍での報恩講ー
今年も報恩講を勤めさせて頂きました。法要に先立って、おみがき大掃除を、同朋の会の皆さんにご奉仕頂きました。
この場にて、お礼申し上げます。誠にありがとうございました。
全国的にコロナ感染が増えてまいりました。
安泉寺では、報恩講法要の作法に従い「初日午後お逮夜、2日目ご満座」両日で一昼夜の法要を、
例年行ってまいりましたが、今年は12日のみの一日勤めとさせて頂きました。
夜のお座には百目蝋燭の灯りの下に行う「御伝鈔」拝読を休詣を短くして行いました。
「御伝鈔」は巻物に収められた親鸞聖人のご生涯を厳かに拝読するもので、住職とお世話方のご門徒さんが
息を合わせてお作法を行い、参詣の方々の間近で拝読し、聖人の御遺徳を偲ぶの報恩講のみに行われるものです。
短縮した形ではあっても、長い歴史の中で勤め続けられて参りました報恩講を、今年も滞りなく
勤めさせて頂けたと、感慨深く思うことです。
お斎はお持ち帰りいただけますよう、大豆と刻み昆布を混ぜた豆ごはんを取り寄せました。
大阪の昔懐かしい豆ごはんです。例年ですと、女性部の皆さんの手作りの盛りだくさんのお斎ですが、
今年は作る事、ご一緒にいただく事が叶いませんでした。ご法話とご法話の間にお斎を頂きながら、
聴聞した事を共に確かめ合う、欠くことの出来ない、法要の大切なひとときなのです。
コロナ禍が一日も早く終息し、また皆さんと共に仏法の味わいを語り合いたいことです。
十二月の行事
3 日(木)午前10時半~ ピラティス
12日(土)午後2時~ 祥月講・同朋の会
ご講師円明寺住職 髙島 章師
31日(木)午後11時~ 歳暮勤行
除夜の鐘
一月の行事
1月28日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
*今年は新型コロナウイルス感染拡大の状況に鑑 み、感染予防の観点より、まことに残念ながら
年末のおみがき懇親会・一月の新年互礼会は行 いません。
*コロナ禍の状況に依りましては、急な行事変更 もあり得ます。尚、感染予防に留意
して準備しておりますが、お越しの
節はマスク等のご着用をお願い
申し上げます。
蓮(はす)と鶏(にわとり)
金子みすゞ
泥のなかから
蓮が咲く。
それをするのは
蓮じゃない。
卵のなかから
鶏(とり)がでる。
それをするのは
鶏じゃない。
それに私は
気がついた。
それも私の
せいじゃない。
青色青光
親鸞聖人の晩年のお手紙をまとめられた「末燈鈔」に
「自然法爾釈(じねんほうにしゃく)」と言われる一文があります。
「自然(じねん)というは、もとよりしからしむるということばなり。
弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、
むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもわぬを、
自然とはもうすぞとききて候。誓いのようは無上仏にならしめんと誓いたまえるなり…」と、
阿弥陀様はそのままなりの貴方を救うと誓っておられる、ただ我ら凡夫は、この絶対他力のお働きに、
仏恩報謝の念仏を申してお応えするだけで良い、と了解はするのですが…
私たちは誰もみな、自身の存在がより確かなものとなるようにと、その意味を求めずにはおられません。
しかし自身の存在そのものに、意味などというものはそもそもない、そういう、自力我執のこころが求め、
自力我執のこころが納得するような意味などは、元より有りはしない、と明らかに知らされるのです。
そして、そう知らされたところこそが、我が身の落居すべきところ、私の生ききることのできる場と、
深くうなずかれるのです。
住職日々随想
作家の桐野夏生氏が「今の世の中、真剣に怒っている人と、ニヤニヤ
している人に分けられる。」と世相を分析しておられます。
実際、自国第一主義を公然と標榜する各国の指導者たちのもと、世界中に圧倒的な経済格差が生じ、
至るところで差別分断が進んでいます。そのような二極化する社会の中、怒りをもって抗議の声を上げておられる方々と、
それを冷笑する人々とに、明確に分かれてしまっているのが、まさに現実ではないでしょうか?
ずいぶん以前、中学生の社会科の授業の時、「名誉白人」と言う、不思議な言葉を教わったことがありました。
少し説明をさせていただきますと、オーストラリアに於いては、白人至上主義に基ずく差別政策が、
建国以来ずっと取り続けられていましたが、1970年代頃から、日本が国力を充実させていくなか、
日本人だけは有色人種の中でも、差別する対象から除外すべしと「名誉白人」と言う呼称が与えられました。
そのように特別視されることを喜ぶ人もいたようですが、中学生の私は、強烈な違和感を感じさせられた事を
未だに記憶しています。
なぜこんなことを思い出したかと申しますと、衆議院議員の杉田水脈氏が、「女性はいくらでも嘘がつける」と、
性暴力について学ぶ自由民主党内の学修会に於いて、そのように発言した、との報道を知ったからです。
そういう発言に対し、少なからぬ議員の方々から、冷笑的に喝采を送るような反応が見られた、
ということも情けないことです。
また、本来女性の人権を守り、差別に対して物申していくべき立場にある女性議員でありながら、
生産性の有無で人間を差別したり、今回のように、男性優位社会におもねって、自ら貶めるような発言を繰り返す、
そんな彼女をして、「名誉男性」と持ち上げ「擁護?」する向きもある事に、思わず絶句してしまいます。
男性優位社会の無言の圧力から、女性蔑視を自ら内在化してしまい、「名誉男性」とされる彼女のような振る舞いは、
かえって痛々しく感じられます。
お釈迦様は2500年前の昔から、「人は生まれ育ちによって卑しい尊いが決まるのではない。
人はその行いによって卑しい尊いが決まるのだ」と、人間の中に本質的に抜き難く存在する、差別する心にしっかり眼を開き、
自ら問い続けることを教えられました。
そのような、まさに愚かにして拙い凡夫である我々は、又、如来によって悲しまれている存在に他なりません。
いつの時代にあっても、仏法に我が身を聞いていくことが、いかに大切なことであるか、改めて深く思わされることです。
坊守便り
ーコロナ禍での報恩講ー
今年も報恩講を勤めさせて頂きました。法要に先立って、おみがき大掃除を、同朋の会の皆さんにご奉仕頂きました。
この場にて、お礼申し上げます。誠にありがとうございました。
全国的にコロナ感染が増えてまいりました。
安泉寺では、報恩講法要の作法に従い「初日午後お逮夜、2日目ご満座」両日で一昼夜の法要を、
例年行ってまいりましたが、今年は12日のみの一日勤めとさせて頂きました。
夜のお座には百目蝋燭の灯りの下に行う「御伝鈔」拝読を休詣を短くして行いました。
「御伝鈔」は巻物に収められた親鸞聖人のご生涯を厳かに拝読するもので、住職とお世話方のご門徒さんが
息を合わせてお作法を行い、参詣の方々の間近で拝読し、聖人の御遺徳を偲ぶの報恩講のみに行われるものです。
短縮した形ではあっても、長い歴史の中で勤め続けられて参りました報恩講を、今年も滞りなく
勤めさせて頂けたと、感慨深く思うことです。
お斎はお持ち帰りいただけますよう、大豆と刻み昆布を混ぜた豆ごはんを取り寄せました。
大阪の昔懐かしい豆ごはんです。例年ですと、女性部の皆さんの手作りの盛りだくさんのお斎ですが、
今年は作る事、ご一緒にいただく事が叶いませんでした。ご法話とご法話の間にお斎を頂きながら、
聴聞した事を共に確かめ合う、欠くことの出来ない、法要の大切なひとときなのです。
コロナ禍が一日も早く終息し、また皆さんと共に仏法の味わいを語り合いたいことです。
十二月の行事
3 日(木)午前10時半~ ピラティス
12日(土)午後2時~ 祥月講・同朋の会
ご講師円明寺住職 髙島 章師
31日(木)午後11時~ 歳暮勤行
除夜の鐘
一月の行事
1月28日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
*今年は新型コロナウイルス感染拡大の状況に鑑 み、感染予防の観点より、まことに残念ながら
年末のおみがき懇親会・一月の新年互礼会は行 いません。
*コロナ禍の状況に依りましては、急な行事変更 もあり得ます。尚、感染予防に留意
して準備しておりますが、お越しの
節はマスク等のご着用をお願い
申し上げます。
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