2020.12.30ブログ
法悦 2021年 1月
第844号
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
つもった雪 金子みすゞ
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。
下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。
中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。
青色青光
今年は新型コロナウィルスの
出現に始まり、新型コロナウィ
ルスの世界的大流行に暮れた一年でした。
そのような年の瀬、北日本各地から豪雪の知らせが届きます。
彼の地に暮らす人々には、温暖な気候の大阪に居ては、想像もつかないような多くのご苦労のある事が偲ばれます。
冬の最初に降った雪が根雪となり、その上にいく層にも雪が降り積もります。
その雪のように、それぞれの所に、喜びも有りますが、又それぞれに苦があります。
上にいる者には風雨を直接受ける苦が有り、底辺にいるものには、全体の重さに押さえつけられる苦があり、
中のものには地に足つかず、見上げても陽のささない孤独があります。
みすゞの抱えるにっちもさっちもいかない状況が、人間存在の等しく抱え持つ孤独を際立たせ、
本来の居場所を見出せない悲しみとなって「さみしかろ」という言葉となってあふれ出たのでしょう。
かねてから女遊びが止まらず、嫌がらせをしてくる夫に、性病まで移され、
絶望し苦しんだあげく、若くして命を絶ったみすゞ。
絶望が深いからこそ、逆に彼女には、いのちすべてを慈しみ悲しむ慈悲の心、
まさに如来の願海からの呼びかけが、いつも響いていたのに違いありません。
住職日々随想
仏教の説く救いとは何でしょう?
それを現代的に翻訳すれば、それぞれに「居場所」が与えられる事、
と言っても良いのではないかと思います。
人間の苦しみ悲しみの本質を突き詰めると、「私はここにいて良いの?この世界に私の居場所はあるの?」
という問いに行き着くのではないでしょうか?
仏教では我々の心の有り様を「所求(しょぐ)」と「情願(じょうがん)」の二重底になっていると説きます。
「所求」というのは、あれをしたい、これをしたい、あれが欲しい、これが欲しいという日常的な欲望のことで、
所求がすべて満たされた世界を「天上界」と言います。
天上界は理想の世界のように思われますが、これも迷いの六道のひとつ、すべてに満たされた世界にも、
必ず喜びが失せ、色あせる「天人の五衰」と呼ばれる時が来ると教えます。
その中でも第五の衰えは「不楽本居(ふらくほんきょ)」と言い、自身の居場所を楽しみ喜ぶ心を失った状態を言います。
現代の我々は、自分の今の在り方が喜べない、自分の今あるところが楽しめない、いわば「退屈」ということです。
退屈というと言葉は軽いように思われますが、言い換えれば「所在=居場所がない」という事。
「所在がない」ということは、私がここに生きているという事に、周りと何の関係も見いだせないと言う事で、
じつに人間にとってこれほど辛い事はないのではないでしょうか。
私たちは、自分の思い、煩悩が満たされることをいつも願っていますが、その更に底、最も深い存在の底に、
私の「いのちの願い」とも言うべきものが在ります。
その「いのちの願い」を仏教では「情願」と言いますが、じつにそれは如来からの呼びかけに他ならないのです。
この事を善導大師は「帰去来(いざいなん)、他郷には停(とど)まるべからず、仏に従いて本家に帰せよ。
本国に還りぬれば、一切の行願、自然(じねん)に成ず。」
また別のところでは、「帰去来(いざいなん)、魔郷には停まるべからず」と、我々が生活しているその世界は、
よそよそしい他郷・魔郷である、いのちの願いの世界こそ汝の居場所である、仏願に順じ、仏のみ名を称え、
いのちの願いの世界にともに帰らん、と。
「所求」を満たすのではなく、「情願」を満足させるということに人生の方向が転換されるとき、真の意味で生きること
の喜びが得られ、本当の居場所が与えられると説くのです。
わたしの「本当の願い」は何でしょう?
坊守便り
ー地域と共にー
この度、地区民生委員会から
長年携わった節目として表彰状ををいただきました。
春の総会で頂く予定でしたが今年はコロナウィルス感染が拡大し、いつ非常事態宣言が出されるかわからない
状況でしたので、延期となっていました。
賞状と盾には令和二年と記されている為、なんとか今年中にと、手渡しにて頂きました。
初めて定例会に参加した時には、先輩の皆さん方が、積極的に、このボランティア事業に
取り組んでおられる姿に感心致しました。
昨今は一人暮らしの方が増えているため、特に夏になると、熱中症になっておられないか、
安否の確認をして、見守りにも気を配りつつ行っています。
児童委員はまだ歴史の浅いお役ですが、昨今の児童虐待のニュ-スなどを見聞きし、改めて、
重要なお役であると感じています。
この秋には二つの研修に参加致しました。「高齢者の認知症について」と『多文化との共生』です。
今年の多文化共生の研修では、ベトナム友好協会の皆さんより、ベトナムのお菓子とお茶をいただきました。
そしてグル-プ学習では、日本語を話せない外国人の方々には、易しい日本語で話すことが必要であると学びました。
地域の方がたと、様々な場面で交流でき、ありがたい事だと思っています。
一月の行事
28日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
二月の行事
4 日(木)午前10時半~ピラティス
20日(土)午後4時~
祥月講・同朋の会聞法会
講師未定
28日(木)午後2時~仏教民謡踊りの会
*今年は新型コロナウイルス感染拡大の状況に鑑み、感染予防の観点より、
まことに残念ながら 一月の新年互礼会は行いません。
*コロナ禍の状況に依りましては
急な行事変更もあり得ます。
尚、感染予防に留意して準備しておりますが、お越しの節は
マスク等のご着用を宜しくお願い申し上げます
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
つもった雪 金子みすゞ
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。
下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。
中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。
青色青光
今年は新型コロナウィルスの
出現に始まり、新型コロナウィ
ルスの世界的大流行に暮れた一年でした。
そのような年の瀬、北日本各地から豪雪の知らせが届きます。
彼の地に暮らす人々には、温暖な気候の大阪に居ては、想像もつかないような多くのご苦労のある事が偲ばれます。
冬の最初に降った雪が根雪となり、その上にいく層にも雪が降り積もります。
その雪のように、それぞれの所に、喜びも有りますが、又それぞれに苦があります。
上にいる者には風雨を直接受ける苦が有り、底辺にいるものには、全体の重さに押さえつけられる苦があり、
中のものには地に足つかず、見上げても陽のささない孤独があります。
みすゞの抱えるにっちもさっちもいかない状況が、人間存在の等しく抱え持つ孤独を際立たせ、
本来の居場所を見出せない悲しみとなって「さみしかろ」という言葉となってあふれ出たのでしょう。
かねてから女遊びが止まらず、嫌がらせをしてくる夫に、性病まで移され、
絶望し苦しんだあげく、若くして命を絶ったみすゞ。
絶望が深いからこそ、逆に彼女には、いのちすべてを慈しみ悲しむ慈悲の心、
まさに如来の願海からの呼びかけが、いつも響いていたのに違いありません。
住職日々随想
仏教の説く救いとは何でしょう?
それを現代的に翻訳すれば、それぞれに「居場所」が与えられる事、
と言っても良いのではないかと思います。
人間の苦しみ悲しみの本質を突き詰めると、「私はここにいて良いの?この世界に私の居場所はあるの?」
という問いに行き着くのではないでしょうか?
仏教では我々の心の有り様を「所求(しょぐ)」と「情願(じょうがん)」の二重底になっていると説きます。
「所求」というのは、あれをしたい、これをしたい、あれが欲しい、これが欲しいという日常的な欲望のことで、
所求がすべて満たされた世界を「天上界」と言います。
天上界は理想の世界のように思われますが、これも迷いの六道のひとつ、すべてに満たされた世界にも、
必ず喜びが失せ、色あせる「天人の五衰」と呼ばれる時が来ると教えます。
その中でも第五の衰えは「不楽本居(ふらくほんきょ)」と言い、自身の居場所を楽しみ喜ぶ心を失った状態を言います。
現代の我々は、自分の今の在り方が喜べない、自分の今あるところが楽しめない、いわば「退屈」ということです。
退屈というと言葉は軽いように思われますが、言い換えれば「所在=居場所がない」という事。
「所在がない」ということは、私がここに生きているという事に、周りと何の関係も見いだせないと言う事で、
じつに人間にとってこれほど辛い事はないのではないでしょうか。
私たちは、自分の思い、煩悩が満たされることをいつも願っていますが、その更に底、最も深い存在の底に、
私の「いのちの願い」とも言うべきものが在ります。
その「いのちの願い」を仏教では「情願」と言いますが、じつにそれは如来からの呼びかけに他ならないのです。
この事を善導大師は「帰去来(いざいなん)、他郷には停(とど)まるべからず、仏に従いて本家に帰せよ。
本国に還りぬれば、一切の行願、自然(じねん)に成ず。」
また別のところでは、「帰去来(いざいなん)、魔郷には停まるべからず」と、我々が生活しているその世界は、
よそよそしい他郷・魔郷である、いのちの願いの世界こそ汝の居場所である、仏願に順じ、仏のみ名を称え、
いのちの願いの世界にともに帰らん、と。
「所求」を満たすのではなく、「情願」を満足させるということに人生の方向が転換されるとき、真の意味で生きること
の喜びが得られ、本当の居場所が与えられると説くのです。
わたしの「本当の願い」は何でしょう?
坊守便り
ー地域と共にー
この度、地区民生委員会から
長年携わった節目として表彰状ををいただきました。
春の総会で頂く予定でしたが今年はコロナウィルス感染が拡大し、いつ非常事態宣言が出されるかわからない
状況でしたので、延期となっていました。
賞状と盾には令和二年と記されている為、なんとか今年中にと、手渡しにて頂きました。
初めて定例会に参加した時には、先輩の皆さん方が、積極的に、このボランティア事業に
取り組んでおられる姿に感心致しました。
昨今は一人暮らしの方が増えているため、特に夏になると、熱中症になっておられないか、
安否の確認をして、見守りにも気を配りつつ行っています。
児童委員はまだ歴史の浅いお役ですが、昨今の児童虐待のニュ-スなどを見聞きし、改めて、
重要なお役であると感じています。
この秋には二つの研修に参加致しました。「高齢者の認知症について」と『多文化との共生』です。
今年の多文化共生の研修では、ベトナム友好協会の皆さんより、ベトナムのお菓子とお茶をいただきました。
そしてグル-プ学習では、日本語を話せない外国人の方々には、易しい日本語で話すことが必要であると学びました。
地域の方がたと、様々な場面で交流でき、ありがたい事だと思っています。
一月の行事
28日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
二月の行事
4 日(木)午前10時半~ピラティス
20日(土)午後4時~
祥月講・同朋の会聞法会
講師未定
28日(木)午後2時~仏教民謡踊りの会
*今年は新型コロナウイルス感染拡大の状況に鑑み、感染予防の観点より、
まことに残念ながら 一月の新年互礼会は行いません。
*コロナ禍の状況に依りましては
急な行事変更もあり得ます。
尚、感染予防に留意して準備しておりますが、お越しの節は
マスク等のご着用を宜しくお願い申し上げます
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