2021.03.08ブログ
法悦 3月
2021年 法 悦 3月号 846号
人、世間愛欲の中にありて
独り生じ、
独り死し、
独り去り、
独り来たりて
行に当たりて
苦楽の地に至り趣く。
身自らこれに当たるに
代わる者
有ること無し
仏説無量寿経
青色青光
上記の言葉は大学に入って間もない
およそ45年前、先輩に教えられ、いまだに忘れられないものです。
当時まだバブル景気には至っておりませんでしたが、
日本経済も成長軌道に乗り、かつのんきな学生であった私は、
さあこれから友達もたくさん作って、学生生活をエンジョイするぞ、
などと思っていただけに、人間はどこどこまでも孤独な存在であり、
それは又、何びとにも代わってもらうことなど、金輪際あり得ない、
という厳しい身の事実を教えられ、大変ショックを受けました。
歳を重ね、わが身にまで至り届いた業は、自ら担っていくより
他ないことと、いよいようなずかされるばかりですが、逆に言えば、
そういう絶対孤独な存在だからこそ、むしろ人と人との関係性の回復が、
願われ続けているのだと気付かされるのです。
ところが、人と生まれ、誰にも代わってもらうことの出来ない事実に
うなずくことは出来ても、我が子や大事な人が、大変な苦しみを抱えて
しまった時などに知らされる、代わってやることの出来ないという
無力感や悲しみは、より深いものとなります。
人間の覚悟などでは、担い切れない、そんな悲しみも、私に先立って
共に悲しんで下さる、如来のお働きの中にあると戴くとき、安心して迷い
苦しんでいく道が開かれるのではないでしょうか。
住職日々随想
あるご門徒さんから、お寺より差し上げている法語カレンダーの
2月の「死をも恐れないのと、死んで往けるのとは同じではない」
という言葉について、その意味するところは何となく分かるのですが、
今ひとつ得心出来ないのですが…、とご質問をいただきました。
お訊ねいただいたその方ご自身、予断を許さぬ重い病を抱えておられ、
切実に問わずにはおられなかったのでしょう。
確かに、死をも恐れない、というのはいかにも勇ましく、そう有りたいもの
と思われるのですが、では実際どれほどの人が、そのような境地に達することが
出来るのでしょう?
そしてそこには、恐怖する自らの心を見ようとしない、そんなごまかしは
ないのでしょうか?
この事を親鸞聖人のお言葉に尋ねてみますと、歎異抄の第9章に、
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、
彼の土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころのなきものを、ことに
あわれみたまうなり。」と、阿弥陀如来のお慈悲は、煩悩が消えることなく、
苦悩の旧里であるこの娑婆にしがみつく、そのような弱きものにこそ、
懸けられてある。
だから、ますます頼もしいことではないかと、如来大悲のお徳を味わって
おられるのです。
この事を今少し尋ねてみますと、哲学を志す人にとって必読の書と
言われる「哲学以前」を著された、哲学者の出隆(いで たかし)氏は、
古式泳法の達人でもあったそうですが、「おぼれる人は大概浅いところで
おぼれている。自分の心の重みで おぼれてしまっている。自分の心も体も
水に預けてしまったとき、ぽっかり水に浮く」と述べておられます。
同じ様に、蓮如上人も「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申せ。」と、
御文の中でたびたび記しておられます。
ここで大事なことは、阿弥陀仏にたのめではなく、阿弥陀仏をたのめと
仰っていることです。
「に」と「を」の一文字の違いですが、阿弥陀仏にたのむとは、家内安全や
商売繁盛等々、個別様々な事柄を阿弥陀様にお願いするということになります。
ところが、阿弥陀仏をたのむとは、阿弥陀仏に全て任せ切るということに
なるのです。
それ故、任せたからには、いかに不都合なことや意に沿わぬ事であった
としても、わが身にまで至り届いたご縁は、我が果たすべき業として、
戴いていく、そういう決意を賜ることに他ならないのです。
念仏を往生の手立てや道具にするところには、真実の安心は得られません。
そこから180度転じて、生死の一大事に当たっても任せ切る、揺るがぬ
ご信心を賜ってこそ、人間成就の往生の道が開かれるのです。
坊守便り
ー孤独・孤立担当大臣の新設ー
この度、日本にも孤独・孤立担当大臣が誕生することになりました。
世界的には、3年前、英国に於いて初めて創設されています。
ある下院議員が選挙活動で個別訪問する中、多くの人が孤独を抱え、
苦しんでいる事に気付きました。
孤独は不健康の王道のような喫煙・飲み過ぎ・太りすぎ・運動不足
よりも体に悪い影響がある、という分析結果が出されています。
ロンドン大学の経政学院で行った試算によると、孤独による医療費の
損失は、10年で一人約85万円と試算され、その対策として英国政府は、
約28億円の予算を充てました。
その取り組みの中、医師に医療ではなく、社会的処方が必要であると
診断された時には、相談員から地域活動への参加を手配されたり、ケアを
受けたりします。
又、16歳から24歳の若者が、どの年代よりも頻繁に且つ最も強く、
孤独を感じるという調査結果から、小学校の授業にも孤独についての
学習が組みいれられたそうです。。
先進医療技術の恩恵もあり、人生100年時代と言われる様になり、
かつて無い新しい生活スタイルが求められるようになりました。
コロナ禍と技術の進歩により、仕事や学校の授業のオンライン化が増え、
人々が直接に接点を持つ事は減りました。コロナ禍の終息後もこの流れは
続くだろうと言われています。
孤独・孤立担当大臣の新設を聞き、改めて人と人が共に会えることの、
掛け替えなさに想いをはせる事です。
お寺での聞法の場が、少しでも心の灯火になれば、と願ってやみません。
三月の行事
20日(土)午後2時 春季彼岸永代経法要
ご講師 伊勢道浄寺 酒井正夫師
*コロナ禍の現状を鑑み、お斎接待は行わず、
昼の座のみとさせていただきます。
25日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
四月の行事
17日(土)午後4時 祥月講・同朋の会
講師 未定
22日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
*コロナ禍の状況に依りましては、急な行事変更もあり得ます。
尚、感染予防に留意して準備致しておりますが、お越しの節は
マスク等のご着用を、宜しくお願い申し上げます。
人、世間愛欲の中にありて
独り生じ、
独り死し、
独り去り、
独り来たりて
行に当たりて
苦楽の地に至り趣く。
身自らこれに当たるに
代わる者
有ること無し
仏説無量寿経
青色青光
上記の言葉は大学に入って間もない
およそ45年前、先輩に教えられ、いまだに忘れられないものです。
当時まだバブル景気には至っておりませんでしたが、
日本経済も成長軌道に乗り、かつのんきな学生であった私は、
さあこれから友達もたくさん作って、学生生活をエンジョイするぞ、
などと思っていただけに、人間はどこどこまでも孤独な存在であり、
それは又、何びとにも代わってもらうことなど、金輪際あり得ない、
という厳しい身の事実を教えられ、大変ショックを受けました。
歳を重ね、わが身にまで至り届いた業は、自ら担っていくより
他ないことと、いよいようなずかされるばかりですが、逆に言えば、
そういう絶対孤独な存在だからこそ、むしろ人と人との関係性の回復が、
願われ続けているのだと気付かされるのです。
ところが、人と生まれ、誰にも代わってもらうことの出来ない事実に
うなずくことは出来ても、我が子や大事な人が、大変な苦しみを抱えて
しまった時などに知らされる、代わってやることの出来ないという
無力感や悲しみは、より深いものとなります。
人間の覚悟などでは、担い切れない、そんな悲しみも、私に先立って
共に悲しんで下さる、如来のお働きの中にあると戴くとき、安心して迷い
苦しんでいく道が開かれるのではないでしょうか。
住職日々随想
あるご門徒さんから、お寺より差し上げている法語カレンダーの
2月の「死をも恐れないのと、死んで往けるのとは同じではない」
という言葉について、その意味するところは何となく分かるのですが、
今ひとつ得心出来ないのですが…、とご質問をいただきました。
お訊ねいただいたその方ご自身、予断を許さぬ重い病を抱えておられ、
切実に問わずにはおられなかったのでしょう。
確かに、死をも恐れない、というのはいかにも勇ましく、そう有りたいもの
と思われるのですが、では実際どれほどの人が、そのような境地に達することが
出来るのでしょう?
そしてそこには、恐怖する自らの心を見ようとしない、そんなごまかしは
ないのでしょうか?
この事を親鸞聖人のお言葉に尋ねてみますと、歎異抄の第9章に、
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、
彼の土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころのなきものを、ことに
あわれみたまうなり。」と、阿弥陀如来のお慈悲は、煩悩が消えることなく、
苦悩の旧里であるこの娑婆にしがみつく、そのような弱きものにこそ、
懸けられてある。
だから、ますます頼もしいことではないかと、如来大悲のお徳を味わって
おられるのです。
この事を今少し尋ねてみますと、哲学を志す人にとって必読の書と
言われる「哲学以前」を著された、哲学者の出隆(いで たかし)氏は、
古式泳法の達人でもあったそうですが、「おぼれる人は大概浅いところで
おぼれている。自分の心の重みで おぼれてしまっている。自分の心も体も
水に預けてしまったとき、ぽっかり水に浮く」と述べておられます。
同じ様に、蓮如上人も「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申せ。」と、
御文の中でたびたび記しておられます。
ここで大事なことは、阿弥陀仏にたのめではなく、阿弥陀仏をたのめと
仰っていることです。
「に」と「を」の一文字の違いですが、阿弥陀仏にたのむとは、家内安全や
商売繁盛等々、個別様々な事柄を阿弥陀様にお願いするということになります。
ところが、阿弥陀仏をたのむとは、阿弥陀仏に全て任せ切るということに
なるのです。
それ故、任せたからには、いかに不都合なことや意に沿わぬ事であった
としても、わが身にまで至り届いたご縁は、我が果たすべき業として、
戴いていく、そういう決意を賜ることに他ならないのです。
念仏を往生の手立てや道具にするところには、真実の安心は得られません。
そこから180度転じて、生死の一大事に当たっても任せ切る、揺るがぬ
ご信心を賜ってこそ、人間成就の往生の道が開かれるのです。
坊守便り
ー孤独・孤立担当大臣の新設ー
この度、日本にも孤独・孤立担当大臣が誕生することになりました。
世界的には、3年前、英国に於いて初めて創設されています。
ある下院議員が選挙活動で個別訪問する中、多くの人が孤独を抱え、
苦しんでいる事に気付きました。
孤独は不健康の王道のような喫煙・飲み過ぎ・太りすぎ・運動不足
よりも体に悪い影響がある、という分析結果が出されています。
ロンドン大学の経政学院で行った試算によると、孤独による医療費の
損失は、10年で一人約85万円と試算され、その対策として英国政府は、
約28億円の予算を充てました。
その取り組みの中、医師に医療ではなく、社会的処方が必要であると
診断された時には、相談員から地域活動への参加を手配されたり、ケアを
受けたりします。
又、16歳から24歳の若者が、どの年代よりも頻繁に且つ最も強く、
孤独を感じるという調査結果から、小学校の授業にも孤独についての
学習が組みいれられたそうです。。
先進医療技術の恩恵もあり、人生100年時代と言われる様になり、
かつて無い新しい生活スタイルが求められるようになりました。
コロナ禍と技術の進歩により、仕事や学校の授業のオンライン化が増え、
人々が直接に接点を持つ事は減りました。コロナ禍の終息後もこの流れは
続くだろうと言われています。
孤独・孤立担当大臣の新設を聞き、改めて人と人が共に会えることの、
掛け替えなさに想いをはせる事です。
お寺での聞法の場が、少しでも心の灯火になれば、と願ってやみません。
三月の行事
20日(土)午後2時 春季彼岸永代経法要
ご講師 伊勢道浄寺 酒井正夫師
*コロナ禍の現状を鑑み、お斎接待は行わず、
昼の座のみとさせていただきます。
25日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
四月の行事
17日(土)午後4時 祥月講・同朋の会
講師 未定
22日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
*コロナ禍の状況に依りましては、急な行事変更もあり得ます。
尚、感染予防に留意して準備致しておりますが、お越しの節は
マスク等のご着用を、宜しくお願い申し上げます。
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