2021.12.31ブログ
2022年1月
法 悦 1月号 856号
今までは
人のことだと思ふたに
俺が死ぬとは
こいつはたまらん
蜀山人 (大田南畝)
うれし楽しや
月日のたつは
やがてまいらん
彼のくにへ
妙好人 伊賀の三左衛門
青色青光
仏教では人間の根源的な苦しみに生・老・病・死の四苦、それらに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・
五蘊盛苦の四苦を加えて、八苦が有ると説かれます。分けても「死苦」は自身の存在が、此の世から
無くなってしまうという事実に対する恐れであるだけに、究極の苦と言えるでしょう。
上の二句は、江戸時代の狂歌師、蜀山人の辞世の句と、妙好人と称される浄土真宗の聞法を重ね、
禅の大家にも劣らぬ境地に達した、名も無き市井の念仏者の詠まれたものです。
正直、私たちの思いとしては、三左衛門さんのような境地にはほど遠く、むしろ蜀山人の句により
近いのではないでしょうか?
思い起こされますのは、歎異抄第九条に唯円の「お念仏を申す身になっても喜びが長続きせず、
一向に早く浄土に往生したいとも思えないのはなぜでしょう?」との問いに答えて、お前もそうか、
この親鸞も同じじゃ。今まで流転を重ねてきたこの娑婆は捨てがたく、いまだうまれざる安養の浄土
が恋しく思われないのは、迷いの煩悩が盛んであるからで「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、
ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、
ことにあわれみたまうなり」と、迷いが深いからこそ、いよいよ阿弥陀仏の大慈悲心が喜ばれると、
おさとしくださいました。
住職日々随想 ー死は賜り物?ー
新型コロナウイルスをはじめ、ウイルスは生物なのか生物でないのか、判然としないそうです。
と言うのも、ウイルスは細胞分裂を繰り返し、ひたすら増殖するばかりで、死なない存在、
ただ壊れるか、感染力を失うかしかないそうです。
地球が誕生しておよそ三十八億年、地球上にいのちを持つ単細胞生物が誕生してから、
およそ二十億年間、生物は死ななかった、と言うより死ぬ必要が無く、細胞分裂を繰り返し、
ひたすら増殖するばかりだったそうです。
そして約十億年前に多細胞生物が誕生したとき、生物の中に「死を手に入れた」ものが出て
きたそうです。
じつに「死」は生物にとって生存戦略上の武器、死ぬからこそ目的が生まれ、交配をすることで
様々な遺伝子が組み合わされ、環境に適応した多様な形が生み出されてきました。
また、死ぬからこそ遺伝子にエラーが生じても、その個体が死ねばエラーが延々と引き継がれる
という事もありません。
ややもすれば、私たちは最も恐れ忌み嫌うものとしてのみ「死」を捉えてしまいます。
病院には四号室が無いとか、死はケガレだと、塩をまいたり、見ないようにいたします。
しかし生物学の立場から見れば、生きることの中にすでに死は内包されている。実際私たちの
何兆という細胞は、日々衰えて死に、また日々新しく生まれるという新陳代謝を繰り返しています。
真宗の先学、清沢満之師は「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり、我等は生死を並有する
ものなり」と喝破されました。
更に言えば死ぬことがなければ、生きがいも無いでしょう。
哲学者の田中美知太郎氏の言葉に「死の自覚が生への愛だ」とあります。
まさに限りあるものという自覚に立って、いのちと真向かうときに、初めて生が輝きだすのです。
まさに死は単に恐れいとうべきものではなくむしろ賜り物と頂くことも出来るのではないでしょうか?
坊守便り ー年の瀬ー
長引くコロナ禍の為にステイホームで過ごす一年が終わります。
今年は同世代の多くの方が、ご両親を見送られました。「病院に入院すると亡くなってからしか
会えないから、自宅療養で送りました」とお聞きする事がありました。もちろん病状やご家族の
事情もあることです。
当寺で、聞法会の参加だけでなく、お斎つくり、コーラス、民謡などすべての行事に参加して
くださる方があり、急な事から春からずっと入院されています。誰にも面会出来ず、ご主人も会って
おられません。
当初すぐに快方に向かわれたのですが、面会が出来ず、今は気力を無くされたそうです。悲しい事です。
年末の日曜日は、同朋会で本堂、境内の大掃除と仏具磨きを行って下さいました。気を許し合った
同朋の仲間で会話がはずみます。「こうすれば、もっと光るよ」など言い交わしながらおみがきに力が入ります。
「わたしはお寺に来てるから元気やねん」と言われます。聞法を通じ集い、言葉の掛け合いが心の元気に
つながっているのですね。掃除で体も動かし賑やかで楽しい年の瀬の一日となりました。
今年もよろしくお願いいたします。
一月の行事
6 日(木)午前10時半~ピラティス
20日(木)午前10時~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
23日(日)午後2時~同朋の会修正会(詳細は後日ご案内申し上げます)
二月の行事
3 日(木)午前10時半~ピラティス
17日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
19日(土)午後2時~祥月講・同朋の会
ご講師 円明寺 髙島章師
*感染予防には十分配慮し、各行事を
行ってまいりますが、万一、感染が
再拡大した場合、変更もしくは中止
することがございます。
今までは
人のことだと思ふたに
俺が死ぬとは
こいつはたまらん
蜀山人 (大田南畝)
うれし楽しや
月日のたつは
やがてまいらん
彼のくにへ
妙好人 伊賀の三左衛門
青色青光
仏教では人間の根源的な苦しみに生・老・病・死の四苦、それらに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・
五蘊盛苦の四苦を加えて、八苦が有ると説かれます。分けても「死苦」は自身の存在が、此の世から
無くなってしまうという事実に対する恐れであるだけに、究極の苦と言えるでしょう。
上の二句は、江戸時代の狂歌師、蜀山人の辞世の句と、妙好人と称される浄土真宗の聞法を重ね、
禅の大家にも劣らぬ境地に達した、名も無き市井の念仏者の詠まれたものです。
正直、私たちの思いとしては、三左衛門さんのような境地にはほど遠く、むしろ蜀山人の句により
近いのではないでしょうか?
思い起こされますのは、歎異抄第九条に唯円の「お念仏を申す身になっても喜びが長続きせず、
一向に早く浄土に往生したいとも思えないのはなぜでしょう?」との問いに答えて、お前もそうか、
この親鸞も同じじゃ。今まで流転を重ねてきたこの娑婆は捨てがたく、いまだうまれざる安養の浄土
が恋しく思われないのは、迷いの煩悩が盛んであるからで「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、
ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、
ことにあわれみたまうなり」と、迷いが深いからこそ、いよいよ阿弥陀仏の大慈悲心が喜ばれると、
おさとしくださいました。
住職日々随想 ー死は賜り物?ー
新型コロナウイルスをはじめ、ウイルスは生物なのか生物でないのか、判然としないそうです。
と言うのも、ウイルスは細胞分裂を繰り返し、ひたすら増殖するばかりで、死なない存在、
ただ壊れるか、感染力を失うかしかないそうです。
地球が誕生しておよそ三十八億年、地球上にいのちを持つ単細胞生物が誕生してから、
およそ二十億年間、生物は死ななかった、と言うより死ぬ必要が無く、細胞分裂を繰り返し、
ひたすら増殖するばかりだったそうです。
そして約十億年前に多細胞生物が誕生したとき、生物の中に「死を手に入れた」ものが出て
きたそうです。
じつに「死」は生物にとって生存戦略上の武器、死ぬからこそ目的が生まれ、交配をすることで
様々な遺伝子が組み合わされ、環境に適応した多様な形が生み出されてきました。
また、死ぬからこそ遺伝子にエラーが生じても、その個体が死ねばエラーが延々と引き継がれる
という事もありません。
ややもすれば、私たちは最も恐れ忌み嫌うものとしてのみ「死」を捉えてしまいます。
病院には四号室が無いとか、死はケガレだと、塩をまいたり、見ないようにいたします。
しかし生物学の立場から見れば、生きることの中にすでに死は内包されている。実際私たちの
何兆という細胞は、日々衰えて死に、また日々新しく生まれるという新陳代謝を繰り返しています。
真宗の先学、清沢満之師は「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり、我等は生死を並有する
ものなり」と喝破されました。
更に言えば死ぬことがなければ、生きがいも無いでしょう。
哲学者の田中美知太郎氏の言葉に「死の自覚が生への愛だ」とあります。
まさに限りあるものという自覚に立って、いのちと真向かうときに、初めて生が輝きだすのです。
まさに死は単に恐れいとうべきものではなくむしろ賜り物と頂くことも出来るのではないでしょうか?
坊守便り ー年の瀬ー
長引くコロナ禍の為にステイホームで過ごす一年が終わります。
今年は同世代の多くの方が、ご両親を見送られました。「病院に入院すると亡くなってからしか
会えないから、自宅療養で送りました」とお聞きする事がありました。もちろん病状やご家族の
事情もあることです。
当寺で、聞法会の参加だけでなく、お斎つくり、コーラス、民謡などすべての行事に参加して
くださる方があり、急な事から春からずっと入院されています。誰にも面会出来ず、ご主人も会って
おられません。
当初すぐに快方に向かわれたのですが、面会が出来ず、今は気力を無くされたそうです。悲しい事です。
年末の日曜日は、同朋会で本堂、境内の大掃除と仏具磨きを行って下さいました。気を許し合った
同朋の仲間で会話がはずみます。「こうすれば、もっと光るよ」など言い交わしながらおみがきに力が入ります。
「わたしはお寺に来てるから元気やねん」と言われます。聞法を通じ集い、言葉の掛け合いが心の元気に
つながっているのですね。掃除で体も動かし賑やかで楽しい年の瀬の一日となりました。
今年もよろしくお願いいたします。
一月の行事
6 日(木)午前10時半~ピラティス
20日(木)午前10時~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
23日(日)午後2時~同朋の会修正会(詳細は後日ご案内申し上げます)
二月の行事
3 日(木)午前10時半~ピラティス
17日(木)午前10時半~ピラティス
午後2時~仏教民謡踊りの会
19日(土)午後2時~祥月講・同朋の会
ご講師 円明寺 髙島章師
*感染予防には十分配慮し、各行事を
行ってまいりますが、万一、感染が
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