2022.11.01ブログ
法悦 2022年11月
法 悦 11月号 866号
迷いは
何十年座禅しても消えない。
でもその迷いのおかげで
自らの迷いから問われている。
その迷いのおかげで
また一歩踏み出そうという
勇気をいただいている。
毎日毎日
自らの迷いのお世話になりながら
これからも
安心して迷っていこうと思います。
ドイツ人禅僧ネルケ無法
青色青光
朝目を覚ましたその瞬間から、夜眠りに
つくその時まで、私たちは常に迷いと不安の中にあります。
それこそ些細な日常生活の迷いから、ひとはどう生きるべきなのか、などと
いう人生の根本に対する迷いまで、常に迷いとそこに生まれる不安と共にある
のが、私たちの有り様なのでしょう。
上記は、足かけ三十年間日本で禅の修行を続けておられる、ドイツ生まれの
禅僧ネルケ無法さんの言葉で、ややもすれば私たちは、自分自身が抱え持つ
迷いや不安が克服される、そのことこそが悟りなんだと、どこかで思い違いを
してはいないかと、問うてきます。
そこで改めて思い出されますのは、故松本梶丸師が度々紹介された、
金沢ヨンさんという篤信のお婆さんの話です。
このヨンさんのところに、ある新興宗教の方がおふたり来られて
「お婆ちゃん、毎日不安がいっぱいあるやろ。私らその不安を取り除いて
あげるお手伝いをしてるねん。一遍、話聞きに来えへんか?」とのお誘いに、
「ほんまに不安だらけの世の中、あんたらご苦労様な事やねえ。けどな、この
不安あんたらにあげてしもうたら、ウラ何を頼りに生きていったらエエがやろ
、不安は私の命やもん。」と、不安があるからこそ仏法に私を尋ね、地に
足付いた歩みをせずにおれない、との言葉に思わず「ばあちゃんの背中から
後光が差しとる」と言い残し帰って行かれたそうです。
住職日々随想
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」
などとよく言われます。しかしよくよく考えてみますと、そこには下目に見る
者がなければ、自身を受け入れることが出来ず、さらには下目に見る者が
いなければ、むりにでもそういった者を作り出さずにはおれない、そのような
ゆがんだ満足を求めるこころが、抜きがたくあるのではないでしょうか。
常に他と比較し、一喜一憂するこころ、高上がりして、他を見下す「驕慢」、
逆に「どうせ私なんか…」と、自己軽蔑する「卑下慢」、さらには、
「あんたもわたしもちょぼちょぼや」というこずるいこころを「等慢」と言い、
いずれも仏教では「慢心」として戒めています。
いかにも尊大に振る舞っているひとも、実は強烈な劣等感にさいなまれ、
内なる不安を覆い隠すために激しく他を攻撃するということがあります。
一例を挙げれば、ロシアのプーチン大統領などがそうでしょう。
欧米に対する強烈な劣等感が、隣国に支配の手を伸ばし、旧ソ連のような
偉大な国を復活させたい、という野望に結びついているのではないでしょうか?
実に慢心にとらわれていだく劣等感ほど、ある意味、危険なものはありません。
お釈迦様はお生まれになってすぐに七歩、歩まれ、天と地を指さして
「天上天下唯我独尊。我、世に於いて無上尊となるべし」と獅子吼されました。
その時世界はそれを嘉し、大地は喜びにうち震え、天からは妙なる音楽が
聞こえ、花びらが舞い、甘露の雨が降ったと仏伝は伝えています。
もちろん、生まれて間もない赤ん坊が歩くはずもなく、世界が喜びに
うち震え、さまざま奇瑞をもたらした、などという話は荒唐無稽だと言えます。
しかし、そういう伝説の形を取ってまで、仏教は何を我々に伝えようとしている
のか、その事を尋ねることこそが大切なのです。
七歩、歩まれたのは、迷いの六道を超え、悟りの世界を示された、ということ
であり、「天上天下唯我独尊」とは、天の上にも天の下にも、今誕生したこの
お命は、掛け替えのないと尊いものなのだと、命の尊厳を高らかに宣言されたと
いただくべきで、まさに何ものにも比較のしようがなく、また比べる必要
もない、そんな「いのちの独立宣言」とも言いうるものなのです。
また、私たちが親しく頂く仏説阿弥陀経にも、極楽浄土の蓮の花のお譬えが
出てまいります。曰く「極楽浄土の七宝の池には、さまざまな蓮の花が咲いて
いる。それは荷車の車輪の如く大きく、青い蓮の花は青い光、黄色い蓮の花
には黄色い光、赤い蓮の花には赤い光、白い蓮の花には白い光、それぞれが
それぞれの光を命一杯輝かせ、しかも互いに邪魔にはならない。」と、まさに
いのちの本質は、あらゆる比較を超えた尊さにこそあると教えられるのです。
坊守便り
ー民生委員勤続十五年表彰を頂きましたー
民生委員・児童委員の行事もコロナ禍のため中止が多く、今年は久し振りに
行われました。
中之島にある国際会議場で、地区からは代表二名と表彰者の参加で大会が
行われました。
今までは、会場の遠く後ろの席から舞台を眺めていましたが、今回は前の席で
松井市長からの祝辞を頂きました。
講師は、厚生労働省事務次官をされていた村木厚子さんでした。
障害者郵便悪用事件に巻き込まれるなか、検察の不正に立ち向かい、無実を
勝ち取られた不屈の方です。
案内を見たときから楽しみにしていました。現在は孤独孤立対策担当室政
策参与をされているということです。
全国二万人に調査を行った年代別の結果、三十代、次いで二十代と若者の
孤独が深いということでした。
長時間労働や地方転勤、職場のいじめ等で生きづらい昨今、支援が届きにくい
という事でした。
孤独を生まない街作りは、「街中保健室」や「生き心地のよい街」などの提案から、
お寺の役割にも通じることだと聞かせて頂いた事でした。
十一月の行事
6 日(日)午後1時~
宗祖親鸞聖人ご誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年予修、
本堂大屋根修復、境内諸施設整備奉告法要
10日(木)午前10時半~ピラティス
12日(土)午後2時~ 報恩講
午後5時頃~御伝鈔拝読
24日(木)午前10時半~ピラティス
十二月の行事
10日(土)午後2時~祥月講・同朋の会聞法会
8 日(木)午前10時半~ピラティス
22日(木)午前10時半~ピラティス
25日(日)午後2時~おみがき清掃ご奉仕
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染がさらに拡大した
場合、変更もしくは中止する場合がございます。
迷いは
何十年座禅しても消えない。
でもその迷いのおかげで
自らの迷いから問われている。
その迷いのおかげで
また一歩踏み出そうという
勇気をいただいている。
毎日毎日
自らの迷いのお世話になりながら
これからも
安心して迷っていこうと思います。
ドイツ人禅僧ネルケ無法
青色青光
朝目を覚ましたその瞬間から、夜眠りに
つくその時まで、私たちは常に迷いと不安の中にあります。
それこそ些細な日常生活の迷いから、ひとはどう生きるべきなのか、などと
いう人生の根本に対する迷いまで、常に迷いとそこに生まれる不安と共にある
のが、私たちの有り様なのでしょう。
上記は、足かけ三十年間日本で禅の修行を続けておられる、ドイツ生まれの
禅僧ネルケ無法さんの言葉で、ややもすれば私たちは、自分自身が抱え持つ
迷いや不安が克服される、そのことこそが悟りなんだと、どこかで思い違いを
してはいないかと、問うてきます。
そこで改めて思い出されますのは、故松本梶丸師が度々紹介された、
金沢ヨンさんという篤信のお婆さんの話です。
このヨンさんのところに、ある新興宗教の方がおふたり来られて
「お婆ちゃん、毎日不安がいっぱいあるやろ。私らその不安を取り除いて
あげるお手伝いをしてるねん。一遍、話聞きに来えへんか?」とのお誘いに、
「ほんまに不安だらけの世の中、あんたらご苦労様な事やねえ。けどな、この
不安あんたらにあげてしもうたら、ウラ何を頼りに生きていったらエエがやろ
、不安は私の命やもん。」と、不安があるからこそ仏法に私を尋ね、地に
足付いた歩みをせずにおれない、との言葉に思わず「ばあちゃんの背中から
後光が差しとる」と言い残し帰って行かれたそうです。
住職日々随想
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」
などとよく言われます。しかしよくよく考えてみますと、そこには下目に見る
者がなければ、自身を受け入れることが出来ず、さらには下目に見る者が
いなければ、むりにでもそういった者を作り出さずにはおれない、そのような
ゆがんだ満足を求めるこころが、抜きがたくあるのではないでしょうか。
常に他と比較し、一喜一憂するこころ、高上がりして、他を見下す「驕慢」、
逆に「どうせ私なんか…」と、自己軽蔑する「卑下慢」、さらには、
「あんたもわたしもちょぼちょぼや」というこずるいこころを「等慢」と言い、
いずれも仏教では「慢心」として戒めています。
いかにも尊大に振る舞っているひとも、実は強烈な劣等感にさいなまれ、
内なる不安を覆い隠すために激しく他を攻撃するということがあります。
一例を挙げれば、ロシアのプーチン大統領などがそうでしょう。
欧米に対する強烈な劣等感が、隣国に支配の手を伸ばし、旧ソ連のような
偉大な国を復活させたい、という野望に結びついているのではないでしょうか?
実に慢心にとらわれていだく劣等感ほど、ある意味、危険なものはありません。
お釈迦様はお生まれになってすぐに七歩、歩まれ、天と地を指さして
「天上天下唯我独尊。我、世に於いて無上尊となるべし」と獅子吼されました。
その時世界はそれを嘉し、大地は喜びにうち震え、天からは妙なる音楽が
聞こえ、花びらが舞い、甘露の雨が降ったと仏伝は伝えています。
もちろん、生まれて間もない赤ん坊が歩くはずもなく、世界が喜びに
うち震え、さまざま奇瑞をもたらした、などという話は荒唐無稽だと言えます。
しかし、そういう伝説の形を取ってまで、仏教は何を我々に伝えようとしている
のか、その事を尋ねることこそが大切なのです。
七歩、歩まれたのは、迷いの六道を超え、悟りの世界を示された、ということ
であり、「天上天下唯我独尊」とは、天の上にも天の下にも、今誕生したこの
お命は、掛け替えのないと尊いものなのだと、命の尊厳を高らかに宣言されたと
いただくべきで、まさに何ものにも比較のしようがなく、また比べる必要
もない、そんな「いのちの独立宣言」とも言いうるものなのです。
また、私たちが親しく頂く仏説阿弥陀経にも、極楽浄土の蓮の花のお譬えが
出てまいります。曰く「極楽浄土の七宝の池には、さまざまな蓮の花が咲いて
いる。それは荷車の車輪の如く大きく、青い蓮の花は青い光、黄色い蓮の花
には黄色い光、赤い蓮の花には赤い光、白い蓮の花には白い光、それぞれが
それぞれの光を命一杯輝かせ、しかも互いに邪魔にはならない。」と、まさに
いのちの本質は、あらゆる比較を超えた尊さにこそあると教えられるのです。
坊守便り
ー民生委員勤続十五年表彰を頂きましたー
民生委員・児童委員の行事もコロナ禍のため中止が多く、今年は久し振りに
行われました。
中之島にある国際会議場で、地区からは代表二名と表彰者の参加で大会が
行われました。
今までは、会場の遠く後ろの席から舞台を眺めていましたが、今回は前の席で
松井市長からの祝辞を頂きました。
講師は、厚生労働省事務次官をされていた村木厚子さんでした。
障害者郵便悪用事件に巻き込まれるなか、検察の不正に立ち向かい、無実を
勝ち取られた不屈の方です。
案内を見たときから楽しみにしていました。現在は孤独孤立対策担当室政
策参与をされているということです。
全国二万人に調査を行った年代別の結果、三十代、次いで二十代と若者の
孤独が深いということでした。
長時間労働や地方転勤、職場のいじめ等で生きづらい昨今、支援が届きにくい
という事でした。
孤独を生まない街作りは、「街中保健室」や「生き心地のよい街」などの提案から、
お寺の役割にも通じることだと聞かせて頂いた事でした。
十一月の行事
6 日(日)午後1時~
宗祖親鸞聖人ご誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年予修、
本堂大屋根修復、境内諸施設整備奉告法要
10日(木)午前10時半~ピラティス
12日(土)午後2時~ 報恩講
午後5時頃~御伝鈔拝読
24日(木)午前10時半~ピラティス
十二月の行事
10日(土)午後2時~祥月講・同朋の会聞法会
8 日(木)午前10時半~ピラティス
22日(木)午前10時半~ピラティス
25日(日)午後2時~おみがき清掃ご奉仕
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染がさらに拡大した
場合、変更もしくは中止する場合がございます。
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