2023.11.14ブログ
法悦 11月
法 悦 11月号 878号
「生」
ものを取りに部屋に入って
何を取りに来たのか忘れて
戻ることがある
戻る途中で
ハタと思い出すことがあるが
その時はすばらしい
身体が先にこの世に出てしまったのである
その用事が何であったか
いつの日か思い当たる時のある人は幸福である
思い出せぬまま
僕はすごすごあの世へ戻る
詩人 映画評論家 杉山平一
青色青光
以前にも少し触れましたが、故、児玉暁洋師が「人間は真実したい事をし、
なりたい者になる為なら、何をしても許されるのだ。」と仰っておられ
ましたが、ひとは誰しも、誰を父に誰を母に、どこそこに生まれようと、
選んで生まれたのではなく、気がついたらここに、男として、あるいは
女として生まれていた。
まさに生まれ出でたその時から、与えられた縁のままに生を受け、
与えられた縁のままにその生を閉じるしかない存在、にもかかわらず、
間だけは何とか思い通りにしたい、否、思い通りにならないことに
我慢ならないと。 人間の願いは二重底、表面的にはああもしたい、
こうなりたいと迷い悩み続けますが、いのちの底では本当にうなずける
ものに出遇いたい、真実の願いに生きるものとなりたい、「それで良いのか、
満足して生き、満足して死んでいけるのか」とこの身の有り様を問い続け
てくる、志願が流れ続けているのです。
無量無数のご先祖や先達方が、その志願に自らを問い続け、歩まれた。
それが念仏の歴史ではないでしょうか。
住職日々随想
「どうして人を殺してはいけないんですか?」
一人の青年がそう問いを発したとき、その場にいた大人も他の若者たちも
、誰も応えられずに押し黙ってしまい、その青年の問いにひりつく雰囲気
のまま、話題が変わっていってしまいました。
これはずいぶん以前になりますが、夜分に放送されていた
『十代しゃべり場』というNHKの若者討論番組での一場面です。
彼の問いそのものも衝撃的でしたが
、それにも増して、誰からもまともな応答がされなかったことに、ショックを
受け深く考えさせられました。
ウクライナへのロシア、プーチン政権による侵略戦争や、パレスチナ・ガザ
地区のハマスによる奇襲攻撃とイスラエルの報復攻撃など、世界各地における
紛争で多くの血が流され、今も日々いのちが奪われ続けています。
冒頭の問いを発した青年も「一人ひとりのいのちはかけがえがなく、それは
地球よりも重いのだ」と、幾度となく聞かされ、うなずいてきたはずですし、
誰かを傷つけ命を奪うことは、なんびとたりとも許されないと理解している
はずです。
しかし世界は全くそうはなっていないじゃないかと、その現実に対する強い
憤りと抗議の意志が、この問いには込められていたと思うのです。
法蔵菩薩が兆歳永劫のご修行を経て、阿弥陀仏と成られるにあたって
誓われた、四十八願の第一に「無三悪趣(むさんまくしゅ)の願…我が国、
浄土には地獄・餓鬼・畜生なからん」が掲げられています。
地獄とは、まさに人と人とが傷つけ合い殺し合う世界、餓鬼とは、決して
満足することのない無限の欲望の支配する世界、そして恥じる心を失って、
強いものにこびへつらい、弱き者を虐げる畜生の世界。
これら三悪趣のない世界が浄土であり、阿弥陀仏のご本願として表現された、
国の違い、民族の違い、それこそ宗教の違いをも超えて、すべての命の底に
流れ続ける一切衆生の本有の願い、まさに願心によって荘厳された世界
なのです。
本来、「浄土」は西方の彼方にあって、死後赴くべき世界、というよりも、
この迷いしかない娑婆世界に、本来の願いの世界に帰せよと、願心を送り続け、
このわたしの上にはたらき続ける、はたらきそのものであり、この仏の願心を
念ずるところに、我が身の有り様を痛み悲しむまなこを凡夫に与え続ける
ものなのです。
北陸の篤信のお同行の中には、阿弥陀仏を「はたらき様」と表現される方も
おられます。まさに名詞としてではなく、動詞としての浄土が今も活き活きと、
このわたしの上にもはたらき続けていて下さるのです。
真宗入門
ー 「門徒」ー
浄土真宗の教えを頂く人の事を「門徒」と言いますが、「檀家」と呼ぶ人
もいます。どんな違いがあるのでしょうか。
「門徒」とは浄土門の徒輩(ともがら)という意味で共にお念仏の教えに生きる
人々の事をいいます。「檀家」とは、江戸時代に幕府が政策の一環として
行った「寺請制度」(檀家制度)により住民が特定の寺院に所属する事が
義務づけられ寺院は戸籍台帳を作り所属を証明していました。
その後、明治政府によりこの制度は廃止されましたが、現在でも檀家という
呼び名が使われています。
「門徒」はもともとは、広く同じ門流に属して信仰を共にする人々を指して
用いられていましたが、本願寺第八代蓮如上人が「御文」などで、門徒という
言葉を多く用いられたことから、浄土真宗を拠りどころとするものの呼び名
となり、現在でも浄土真宗の教えをいただく人々を指す言葉として、
一般的に使われています。
法語の味わい
「生の依りどころを与え
死の帰するところを与えていくのが
南無阿弥陀仏」
金子大栄先生は念仏もうす事において、死の「帰するところをもって、生の
依りどころとするということに、浄土の教えの性格がある」といわれます。
私達は死を怖れて忌み嫌い、生の充実をもとめます。目の前の利益を
もとめて右往左往する日暮らしに明け暮れ、やがて後悔と不安が残るの
ではないでしょうか。
仏の教化を受けて帰るべきところがはっきりすれば、今までの生き方は
変わってきます。帰る家がはっきりすると安心して家路につくことが出来る
のですね。
金子先生は「心おきなく死んでいけるところが見つかるのであれば、それが
本当の生の意義」と教えておられます。
坊守便り ー 秋の日帰りバス旅行 ー
「南都六宗 二大本山を訪ねて」
同朋会をはじめ安泉寺ご門徒の皆様と、毎年貸し切りバスで古寺巡拝を行い、
たいへんご好評を頂いております。
コロナ禍でお休みさせて頂いておりましたが、4年ぶりに開催いたします。
大和路・南都六宗の本山、唐招提寺・興福寺へご一緒にお参り致しましょう。
唐招提寺は律宗の総本山です。当時、危険な船の旅に5回も失敗を繰り返し、
失明しながらも、ようやく6度目に日本にたどり着かれた、鑑真和上の
開かれたお寺です。
世界遺産にも登録された金堂をはじめ、歴史ある建造物や宝物が多く有り、
平城京の持つおおらかさを感じる事が出来るでしょう。
また、安泉寺住職の大学時代の友人が、現在管長を勤めておられますので、
是非お訪ねしたい事です。
興福寺は法相宗の大本山、五重塔をはじめ金堂や北円堂などの建造物、
有名な阿修羅像などがあり、天平文化の面影を偲ぶ事ができます。
また、ご当地グルメを頂き、ならまちの散策を楽しみましょう。お誘い
合わせの上ぜひご参加下さい。
十一月の行事
5 日(日) 午後1時~ おみがき・清掃奉仕
12日(日) 報 恩 講 昼2 時 大 逮 夜
引き続き 御伝鈔拝読
ご講師 泉大津 南溟寺 戸次公正師
16日(木) 午前10時半~ ピラティス
30日(木) 午前10時半~ ピラティス
十二月の行事
3 日(日) 秋の一日バスツアー
「南都六宗 二大本山を訪ねて」
7 日(木) 午前10時半~ ピラティス
17日(日) 午後2時~
年末おみがき・大掃除ご奉仕・年末茶話会
21日(木) 午前10時半~ ピラティス
31日(日) 夜11時~ 歳暮勤行
除夜の鐘
*前住職病気療養中のため、今月号より 坊守が3・4ページのコラムを担当
いたしております。
*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が 再拡大した場合、
変更もしくは中止する事がございます。
「生」
ものを取りに部屋に入って
何を取りに来たのか忘れて
戻ることがある
戻る途中で
ハタと思い出すことがあるが
その時はすばらしい
身体が先にこの世に出てしまったのである
その用事が何であったか
いつの日か思い当たる時のある人は幸福である
思い出せぬまま
僕はすごすごあの世へ戻る
詩人 映画評論家 杉山平一
青色青光
以前にも少し触れましたが、故、児玉暁洋師が「人間は真実したい事をし、
なりたい者になる為なら、何をしても許されるのだ。」と仰っておられ
ましたが、ひとは誰しも、誰を父に誰を母に、どこそこに生まれようと、
選んで生まれたのではなく、気がついたらここに、男として、あるいは
女として生まれていた。
まさに生まれ出でたその時から、与えられた縁のままに生を受け、
与えられた縁のままにその生を閉じるしかない存在、にもかかわらず、
間だけは何とか思い通りにしたい、否、思い通りにならないことに
我慢ならないと。 人間の願いは二重底、表面的にはああもしたい、
こうなりたいと迷い悩み続けますが、いのちの底では本当にうなずける
ものに出遇いたい、真実の願いに生きるものとなりたい、「それで良いのか、
満足して生き、満足して死んでいけるのか」とこの身の有り様を問い続け
てくる、志願が流れ続けているのです。
無量無数のご先祖や先達方が、その志願に自らを問い続け、歩まれた。
それが念仏の歴史ではないでしょうか。
住職日々随想
「どうして人を殺してはいけないんですか?」
一人の青年がそう問いを発したとき、その場にいた大人も他の若者たちも
、誰も応えられずに押し黙ってしまい、その青年の問いにひりつく雰囲気
のまま、話題が変わっていってしまいました。
これはずいぶん以前になりますが、夜分に放送されていた
『十代しゃべり場』というNHKの若者討論番組での一場面です。
彼の問いそのものも衝撃的でしたが
、それにも増して、誰からもまともな応答がされなかったことに、ショックを
受け深く考えさせられました。
ウクライナへのロシア、プーチン政権による侵略戦争や、パレスチナ・ガザ
地区のハマスによる奇襲攻撃とイスラエルの報復攻撃など、世界各地における
紛争で多くの血が流され、今も日々いのちが奪われ続けています。
冒頭の問いを発した青年も「一人ひとりのいのちはかけがえがなく、それは
地球よりも重いのだ」と、幾度となく聞かされ、うなずいてきたはずですし、
誰かを傷つけ命を奪うことは、なんびとたりとも許されないと理解している
はずです。
しかし世界は全くそうはなっていないじゃないかと、その現実に対する強い
憤りと抗議の意志が、この問いには込められていたと思うのです。
法蔵菩薩が兆歳永劫のご修行を経て、阿弥陀仏と成られるにあたって
誓われた、四十八願の第一に「無三悪趣(むさんまくしゅ)の願…我が国、
浄土には地獄・餓鬼・畜生なからん」が掲げられています。
地獄とは、まさに人と人とが傷つけ合い殺し合う世界、餓鬼とは、決して
満足することのない無限の欲望の支配する世界、そして恥じる心を失って、
強いものにこびへつらい、弱き者を虐げる畜生の世界。
これら三悪趣のない世界が浄土であり、阿弥陀仏のご本願として表現された、
国の違い、民族の違い、それこそ宗教の違いをも超えて、すべての命の底に
流れ続ける一切衆生の本有の願い、まさに願心によって荘厳された世界
なのです。
本来、「浄土」は西方の彼方にあって、死後赴くべき世界、というよりも、
この迷いしかない娑婆世界に、本来の願いの世界に帰せよと、願心を送り続け、
このわたしの上にはたらき続ける、はたらきそのものであり、この仏の願心を
念ずるところに、我が身の有り様を痛み悲しむまなこを凡夫に与え続ける
ものなのです。
北陸の篤信のお同行の中には、阿弥陀仏を「はたらき様」と表現される方も
おられます。まさに名詞としてではなく、動詞としての浄土が今も活き活きと、
このわたしの上にもはたらき続けていて下さるのです。
真宗入門
ー 「門徒」ー
浄土真宗の教えを頂く人の事を「門徒」と言いますが、「檀家」と呼ぶ人
もいます。どんな違いがあるのでしょうか。
「門徒」とは浄土門の徒輩(ともがら)という意味で共にお念仏の教えに生きる
人々の事をいいます。「檀家」とは、江戸時代に幕府が政策の一環として
行った「寺請制度」(檀家制度)により住民が特定の寺院に所属する事が
義務づけられ寺院は戸籍台帳を作り所属を証明していました。
その後、明治政府によりこの制度は廃止されましたが、現在でも檀家という
呼び名が使われています。
「門徒」はもともとは、広く同じ門流に属して信仰を共にする人々を指して
用いられていましたが、本願寺第八代蓮如上人が「御文」などで、門徒という
言葉を多く用いられたことから、浄土真宗を拠りどころとするものの呼び名
となり、現在でも浄土真宗の教えをいただく人々を指す言葉として、
一般的に使われています。
法語の味わい
「生の依りどころを与え
死の帰するところを与えていくのが
南無阿弥陀仏」
金子大栄先生は念仏もうす事において、死の「帰するところをもって、生の
依りどころとするということに、浄土の教えの性格がある」といわれます。
私達は死を怖れて忌み嫌い、生の充実をもとめます。目の前の利益を
もとめて右往左往する日暮らしに明け暮れ、やがて後悔と不安が残るの
ではないでしょうか。
仏の教化を受けて帰るべきところがはっきりすれば、今までの生き方は
変わってきます。帰る家がはっきりすると安心して家路につくことが出来る
のですね。
金子先生は「心おきなく死んでいけるところが見つかるのであれば、それが
本当の生の意義」と教えておられます。
坊守便り ー 秋の日帰りバス旅行 ー
「南都六宗 二大本山を訪ねて」
同朋会をはじめ安泉寺ご門徒の皆様と、毎年貸し切りバスで古寺巡拝を行い、
たいへんご好評を頂いております。
コロナ禍でお休みさせて頂いておりましたが、4年ぶりに開催いたします。
大和路・南都六宗の本山、唐招提寺・興福寺へご一緒にお参り致しましょう。
唐招提寺は律宗の総本山です。当時、危険な船の旅に5回も失敗を繰り返し、
失明しながらも、ようやく6度目に日本にたどり着かれた、鑑真和上の
開かれたお寺です。
世界遺産にも登録された金堂をはじめ、歴史ある建造物や宝物が多く有り、
平城京の持つおおらかさを感じる事が出来るでしょう。
また、安泉寺住職の大学時代の友人が、現在管長を勤めておられますので、
是非お訪ねしたい事です。
興福寺は法相宗の大本山、五重塔をはじめ金堂や北円堂などの建造物、
有名な阿修羅像などがあり、天平文化の面影を偲ぶ事ができます。
また、ご当地グルメを頂き、ならまちの散策を楽しみましょう。お誘い
合わせの上ぜひご参加下さい。
十一月の行事
5 日(日) 午後1時~ おみがき・清掃奉仕
12日(日) 報 恩 講 昼2 時 大 逮 夜
引き続き 御伝鈔拝読
ご講師 泉大津 南溟寺 戸次公正師
16日(木) 午前10時半~ ピラティス
30日(木) 午前10時半~ ピラティス
十二月の行事
3 日(日) 秋の一日バスツアー
「南都六宗 二大本山を訪ねて」
7 日(木) 午前10時半~ ピラティス
17日(日) 午後2時~
年末おみがき・大掃除ご奉仕・年末茶話会
21日(木) 午前10時半~ ピラティス
31日(日) 夜11時~ 歳暮勤行
除夜の鐘
*前住職病気療養中のため、今月号より 坊守が3・4ページのコラムを担当
いたしております。
*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が 再拡大した場合、
変更もしくは中止する事がございます。
New Article
Archive
- 2024年11月
- 2024年9月
- 2024年7月
- 2024年6月
- 2024年5月
- 2024年4月
- 2024年3月
- 2024年2月
- 2024年1月
- 2023年11月
- 2023年10月
- 2023年8月
- 2023年7月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年4月
- 2023年3月
- 2023年2月
- 2023年1月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年8月
- 2022年7月
- 2022年5月
- 2022年4月
- 2022年2月
- 2022年1月
- 2021年12月
- 2021年11月
- 2021年10月
- 2021年8月
- 2021年6月
- 2021年4月
- 2021年3月
- 2021年2月
- 2020年12月
- 2020年10月
- 2020年9月
- 2020年8月
- 2020年7月
- 2020年4月
- 2020年3月
- 2020年2月
- 2019年12月
- 2019年11月
- 2019年10月
- 2019年9月
- 2019年8月
- 2019年7月
- 2019年6月
- 2019年5月
- 2019年3月
- 2019年1月
- 2018年12月
- 2018年11月
- 2018年10月
- 2018年9月
- 2018年8月
- 2018年7月
- 2018年6月
- 2018年5月