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西新宿 彩旬亭

2025.11.29ブログ

法悦 12月

法 悦12月号 903号


こ え        一年 赤木一夫

おかあちゃんが

きをつけてねといった

ぼくは

はい いってきますといった

おかあちゃんのこえが

ついてきた

がっこうまで

ついてきた

灰谷健次郎著 「子どもへの恋文」より

青色青光
日本国内の自死される方は、2003年に3万人を越えピークを迎えましたが、その後、2007年に制定された「自殺対策基本法」に基づき自治体・政府一丸となって、様々な施策が実施されてきました。
具体的には地域の実情に応じた取り組みが推進され、電話やSNSの活用など、
多様な相談経路が整備され、SOSを発信しやすい環境が作られてきました。
加えて保健・医療・福祉の連携強化や、地域における支え合い、経済状況の改善傾向などにより、全体として自死される方は減少しつつあります。
わけても重要な事は、自死は単に個人の問題ではなく、「予防可能な社会問題である」という認識が広まるよう、様々な啓発活動が行われてきた事です。
ただ自死者の全体数は減少傾向にあるものの、未成年の女性や子どもの自死が増加するなど、新たな課題も出てきました。
特に未来を託すべき子ども達が、生きづらさを抱え苦しんでいることは、看過すべきでない問題です。
諸行無常、全ては移り変わり続けます。今抱えている苦しみも、決して永遠に続くものではありませんし、いつの日か思い出として語る日が来る事も珍しくはありません。
また日の光は直接見る事は出来ませんが、曇り空の下の日の光はうっすらであったとしても、その光は確かに到り届いているように、何処にも光がないと嘆くより、微かであっても必ず光は有り、明けない夜は無いと、子ども達に伝えていく事が、人生の先輩としての務めではないでしょうか?

住職日々随想
内閣府で行っている各種国際比較調査で、日本の若者は他国の若者と比べて「自分自身に満足している」「自分には長所がある」と答える割合が少なく、いわゆる自尊感情が低い傾向にあると指摘されています。
ただこれは何も若者に限った事ではなく、日本社会全体を覆う「空気を読め」という、過度に周囲の意見に合わせることが優先され、個人の主張が抑制されやすい社会的雰囲気に、主な原因があると考えられます。
よく褒めて育てろなどと言われますが、目標を達成したときに承認され、褒められたという経験の積み重ねが、自己肯定感を高め、自尊感情を養ううえで重要であり、その中で育まれる「自分を愛する」「自分の価値を認める」事が心の健康に大切なものであると数多く語られています。
しかし仏教の観点から問い直すと、三つのまったく異なる視座が与えられます。
第一に「諸法無我」という教え、「私」という不変で独立した実体は存在しない、因縁によって固定された「私」という実体が存在するという誤解こそが、苦を生み出す根源的な原因であり、常に生じ常に変化し続けている、という真理です。
第二に自尊感情が低いというのは、「理想の自分」という幻想と、現実の自分とのギャップに苦しんでいる状態、仏教では、この「自己」への過度な執着や、先に述べた誤解こそが、苦を生み出す根源的な原因であると説きます。
他人と比較して「自分が優れているという「驕慢」、逆に劣っているという「卑下慢」、あんたも私も同じ、ちょぼちょぼやという「等慢」、そのいずれもが比較する心「慢心」という煩悩であると説きます。
「自分はダメだ」と感じるのは、この慢心にとらわれ、社会が作った相対的な物差しで自らを測り、それに達していないと判断しているからに他なりません。 この実態のない「物差し」から自由になり、身の事実をありのまま受け止める事が、解決の糸口なのです。
第三に慈悲ということ「慈」は楽を与え「悲」は苦を抜く実践で、それは他者に対してだけではなく、自分自身にも向けられるべきものです。
「自己肯定感」を無理やりにでも高めることに答えを求めるのではなく、むしろ自己へのとらわれを手放し、「ありのまま」の現実を受け入れる事こそが肝要、という姿勢が仏教の説く所なのです。
日本の若者の自尊感情の低さという問題は、突き詰めて考えれば、私たち人間が持つ根源的な「自我への執着」と「過剰な慢心」の表れなのかもしれません。
大切なのは「自分を好きにならなければならない」という新たな「べき」論にとらわれる事ではなく、むしろありのままの自分を、善し悪しの判断を加えずに受け入れる事、そして、苦しんでいる自分自身に「慈悲」の眼差しを向ける事です。
大人がまず、この仏教のみ教えに立ち返り、子供たちに「あなたはあなたのままで良いのだよ」という
安心感を与えられるような社会、家庭を築いていく事が、現代に生きる我々大人にとっての仏道修行と言えるのではないでしょうか?

真宗入門 ー剃髪ー
僧侶は髪を剃るものだと思っていましたが、浄土真宗の僧侶は髪を剃らなくてもよいようですね。何か理由があるのでしょうか?
・僧侶が剃髪する意味は、出家して仏門に入るとき修行のさまたげになる煩悩を断じるため、すべての飾りを捨て去るということからきています。
この姿は、お釈迦様が剃髪をして出家された姿に由来しており、以来、仏門に入るとき仏弟子となった証として、剃髪することが僧侶の姿とされてきました。 真宗大谷派では、僧侶となるときに受式する「得度式」において男性は剃髪をしますが、得度式のあとは必ず髪を剃るとは決まっていません。
一方、女性は髪を一つに束ねるだけで剃り落とす決まりはありません。
得度式受式後から僧侶としての歩みが始まりますが、浄土真宗では出家というかたちをとらず、社会生活を送る中で仏様の教えを聞いていきます。
そのようなことからも、特段剃髪の決まりはないのです。

法語の味わい ー法語カレンダー12月号よりー

不平こぼす この口から
南無阿弥陀仏が こぼれる

「娑婆(しゃば)の語源は、古代インド、サンスクリット語の「サハー」です。
意味は「耐え忍ぶ」で、お釈迦様はこの世を表す言葉として「サハー=娑婆」という言葉を選ばれました。 せっかくあまたある生き物の中で、生まれがたい人としての身を賜り生まれてきたのに、ご縁が無ければ何一つ思い通りにいかない、願い通りならない、そういう世界だとお示しくださいました。
つまり不平不満の姿が私自身の姿だと。不平不満の私に「無理ない 無理ない」と寄り添い「何も心配いらないからね。」と、阿弥陀様は私のいのち全体を包みとってくださいます。そのお慈悲が届いているにもかかわらず、不平をこぼしている私がいます。
「お念仏申さずばもったいない、なまんだぶつ なまんだぶつ ・・・」

坊守便り
ー死を通じつながるー
「兄を持ち運べるサイズに」という映画が11月末から公開されています。
この映画は家族の遺骨をめぐる遺族の物語です。
物語は急死した兄の知らせを受け、取り急ぎ駆けつけた妹の4日間ほどの出来事を描いています。
妹の他には兄の別れた妻、息子、娘がやって来ます。7年ぶりに親族が顔を合わせて亡き兄を見送ります。 納棺や通夜・葬儀の中でただ悲しみだけでなく、目の前の死を挟んで、クスッと笑ってしまうようなやり取りもありながら、滞りなく儀式が進んでいきます。
監督からのメッセージは、「誰かが死んだら、その人のことを思いながら、自分の生き方も考える。それが人の死であり、特に家族の場合はそうだと思う」と。 監督自身、幼少期に父の死を経験したが、失うだけでなく「生きる何かをもらった感覚が自分のなかにある」と、残された人間がどう生きるかを描いておられます。死を通してこそ教えられる事があると…。

十二月の行事 

4 日(木)午前10時半~ ピラティス

6 日(土)午後2時~ 祥月講・同朋の会聞法会
ご講師 光照寺住職 墨林 浩師

18日(木)午前10時半~ ピラティス

31日(水)午後 11時半~
歳暮勤行・除夜の鐘

一月の行事

15日(木)午前10時半~ ピラティス

18日(日)正午~ 修正会 同朋の会新年会

25日(日)午後4時~ 創作浪曲「医師 中村哲」
趙 博・沢村道代
参加費 投げ銭

29日(木)午前10時半~ ピラティス

寸 言
白にも 200種類あるんやで
アン・ミカ
真宗大谷派 鶴栖山 安泉寺

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